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今年も残り4か月

9月に入り、台風12号が各地に不安定な天気を齎しています。
完全に秋になりました。
9月の声を聴くと、カレンダーは、もう残り2枚、そして、次のカレンダーの発売開始の時期になります。私の場合、カレンダーと手帳を新調するのがこの時期の決まりになっています。
そんなわけで、ほぼ日手帳のサイトに確認に行くと、やはりすでに発売が開始されていました。私の場合、すでにカバーは3種類(革製、布製、プリントもの)所有しているので、中身だけを新調しています。

そして、出遅れると、あっという間になくなってしまうのが、お気に入りのカレンダーです。私は、六曜や二十四節季などが掲載された美しい景色のものが好きなので、山と渓谷社のカレンダーを好んで購入しています。値段は、1,500円以内で、他にネコや仏像などのものもあり、常に迷います。
私が購入するのは、自室と第二のプライベート空間になるトイレに飾るものです。トイレにカレンダーは不可欠です。できれば、脱衣室にも欲しいところですが、昨年から我慢しています。

季節が変わると、気持ちにも変化が表れます。
買い物をしたくなったり、旅行に出かけたくなったり、美味しいものを食べたくなったり、新たなことを始めたくなったりします。
昨年はポタリング以外何処にも出かけなかった私ですが、今年は、少し心境に変化が起きました。

母の病気が解った5年前、その母が亡くなった3年前、仕事を辞めた2年前、振り返ると、私が楽しい旅行をしたのは、もう5年以上も前のことだったのです。
私の家は、少し複雑な環境でした。
両親が不和だったのです。
母と私の日帰り旅行の同行者は、父ではなかったのです。

父は仕事人間でした。
というよりは、まじめな人だったのです。
そんな父を尊敬はしていましたが、やや古い考え方の父に反発することもしばしばありました。

母は、30年前に春日部に引っ越してから、手編みの仕事を生業として、家計を助けてきました。その前に住んでいた八潮市の頃は、パートで編み物の仕事をしていたのですが、その支店として自分で編み子さんをみつけ独立したのです。しかし、母を家に閉じ込めていたかった父との関係が思わしくなくなりました。

父には自分の考えを他人に押し付ける性質がありました。
子育ても終わり、19歳で結婚し20年目、母にも父の束縛から逃れたいという思いが芽生えていたようです。思えば、母がそのような思いに至ったのは、運転免許を取得し、世に出始めた頃、そして、それが新天地に移ることで助長されていったのです。

別に浮気とかをしたかったわけではなく、自分のそのような考えを理解してくれる人を求めていたのかも知れません。まだ幼少期の頃に父と死別し、継父と異父妹弟との間で育った母は、「父親」のような存在を求めていたようにも思います。

しかし、亭主である父は、自分以外と母との交友を許しませんでした。
そんな父への反発する思いがすれ違いとなり、余計二人の関係を悪くしていきました。当然、家の中、家族の中も、ギクシャクしていきました。
5年もすると、家庭に冷めた弟は母を名前で呼ぶようになり、父はそれまで以上に煙たい存在になっていきました。

私は、春日部に移転したのちの約一年後の高校を卒業後、父の勤務先の社長方に居候し、専門学校に通っていましたので、そんな家族の関係に気が付いたのは、もう関係修復が難しくなった2年後のことでした。
すでに、社会人になっていた私は、夜間専門学校に通っていたこともあり、それから10年間、徐々に心が壊れつつも、現実を払拭するかのように、仕事に邁進してきました。

そして、約10年後、もう何もかにも嫌になりました。
東村山の会社を辞め、その後、昼の専門学校に通い税理士試験にチャレンジするものの、年齢とともに衰える記憶力と、受験意欲をどうすることもできなくなっていきました。
おそらく、そんな私のことを母が付きあっていた人も察したのでしょう。
その人は、自宅に引きこもっていた私のことを、母と共に外に連れて行くようになりました。
ある時は、競馬場、パチンコ屋、そして、日光会津方面への日帰り旅行へと。

その人には、妻と娘が二人おりました。
年齢は、父よりも一つ下。飲食店を営んでいたそうで、そこで定期的にカラオケを指導されておりました。奥さまは、社交的な亭主と生徒たちの関係に嫉妬し、その人が趣味で飼っていたアクアリウムを台無しにしたり、釣竿を折ったり、家からの締出しなどを頻繁にされたようです。

そうしたことが繰り返され、気持ちはすでに離れ、家から出て行き、住む処さえなかったのです。中古車と健康センターとを生活拠点とし、日中は、母と生活のためのギャンブルで収入を得ていたのです。
競馬場に行くと、信じられなくくらいの掛け金で万馬券、パチンコでも二人は常勝でした。

二人は、私にそんな暮らし方を隠し立てもなく見せてくれました。
母には、自責の思いもあったようで、何もかにもが嫌になっていた私に心を取り戻させようと、必死でした。最初は母に妻子ある人との関係を思い直すように促していた私でしたが、徐々に母の寂しい思いを知ることになり、そんな母の思いを理解しようとしない父への反発心が、芽生えてきました。

私には、父と遊んだ記憶がほとんどありません。
父は、私が幼い頃、塗装の職人として、土日祭日も関係なく、働いておりました。父との記憶は、たまの休業日にデパートに出かけたこと、社宅住いだった頃の銭湯や外食に行ったことだけです。
父と私の関係には、常に母がいたのです。
ですから、母と父とが疎遠になると、私と父との関係は、皆無になってしまいました。父は、父親というよりも母の伴侶だったわけで、そんな関係から、私が仕事を辞め、ひきこもった際にも無関心な人でした。
母に私に対する不満や愚痴を言っても、私の思いを理解しようとは考えなかったようです。母は、私の『父親』になりきれないそんな父のことを軽蔑していました。悪循環でした。

私は母が交際していた人のことを母がそう呼んでいたように「先生」と呼んでいました。先生は、父と同様に口数は多くないタイプの人でしたが、私のことを不快にさせないように気遣いをしていました。そして、私の深層にあったわだかまりのようなものを徐々に氷解させていきました。母は、それまで家では見せたことがないくらいの姿を見せ、私を何度も驚かせました。

おそらく母は、「先生」と出会って生まれて初めて自我を開放されていったのだと感じました。三人での日帰り旅行は、実にスリリングでした。
父が帰宅する前にさもずっと家にいたように装ったり、外出の日は、まるで監禁場所から抜け出すような感じで出て行きました。

弟のことも誘ったのですが、弟には理解できなかったのかもしれません。
私はそうした二人のおかげで2年後の5月に社会復帰しました。
私の再就職に合わせるように、弟が家を出ていきました。
表向きの理由は、朝が苦手な弟は、通勤が楽な都内で自活するというものでしたが、おそらく父と家族との板挟みの関係に疲れ果て、家を出て行ったものと想像されました。

税理士試験挑戦をあきらめた私は、それまで以上に仕事に邁進していきました。会社の公開をするために、夜昼関係なく仕事してきたことで、半年後にはジャスダック公開に漕ぎ付かせることができました。

しかし、身体に相当無理が来ていたようで、その後、尋常性乾癬という病にかかってしまいました。公開から半年後、私は緊急入院を余儀なくされました。皮膚呼吸ができない状態まで、乾癬が悪化していたのです。
時は、平成12年(2000年)、私は36歳になっていました。
初めての病気による入院、思えば、この頃、会計制度が大きく変化し、キャッシュフロー会計など、自分が簿記を学習し始めた頃にはなかったものが続々と登場し始めていきました。公開会社に義務付けられる四半期開示、そして、それに伴う大きな心労もあったのかも知れません。

それから、5年経過すると、母に異変が起きました。
本人曰く、感情の起伏が激しかったり、平衡感覚に異常を感じ始めたのです。
MRI検査などをしましたが、一向に原因がわかりませんでした。
原因が分かったのは、2006年の春でした。
母は、特定疾患に指定されている病、「進行性格上性麻痺」という不治の病に侵されていました。

その事実が判明後、間もなく会社都合でそこを辞めることになった私は、新たな職場を探すのに、初めて職安以外の手段を選択しました。エージェントに伴われ、紹介された会社は、驚くことにまるで紹介時に内定されていたかのように、面談で即決されてしまいました。私がその会社のことを理解する前に会社は、緊急に経理の引継ぎ者を求めていたのです。

結局、母の介護を伴う私の環境を考えず、私の採用を即決した東証ナスダック2部上場の会社は、その年の春に社長が突然解任され、顧問していた監査法人もさじを投げ、開示報告の時期に6人の経理がその中心人物も含め、ほぼ全員が辞めていくという緊急事態にあったようです。

余りに無茶な会社のニーズと家族に介護を伴うという環境の変化もあり、そこは、翌月に退社、私の再就職は難航しました。約2か月後に新たな勤務地を捜しました。まるで、結婚詐欺にあって戸籍を汚すかのように、私の履歴書は汚されてしまいました。おかげで職務経歴書での記載が面倒になりました。

父と母の関係は、母の病気の進行と共に修復され、『先生』と父と私の弟と私とで、母の介護を分担していきました。信じられないようなことでしたが、それほど母の病は、家族に衝撃を与えたのです。

介護の甲斐なく、母は3年前の春に他界しました。
そうして『先生』と私の家族との関係は、終わっていきました。
先生に最後に再会したのは、母の三回忌。
皆それぞれの喪失感を抱きつつ、3年半の月日が過ぎていきました。

秋の空模様を見ながら、ふと生前の母のことを思い出し、つらつらと書き綴ってしまいました。秋はそんな季節です。

by sumomojam39 | 2011-09-02 17:27