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母の思い出

もうじき、母が亡くなって三度目の春です。
3年前の平成20年の3月下旬、桜が綺麗に咲いた季節に、母を送りました。
今回は、そんな追悼を込めて、それに関することを書いていきます。

母は、特定疾患と言われる病の一つ、「進行性核上性麻痺」という病に突然かかりました。呂律が回りにくい、喜怒哀楽が激しくなる、平衡感覚が鈍くなるなどの症状が現れ始めたのは、おそらく、その4年前くらいのことです。

元来、我慢強い人でしたが、母はある日、「自分の症状は普通じゃない」と言い、それは徐々に我々にも解るものとなりました。
しかし、2箇所の病院でMRIなどの検査を行っても、何の病気かは判明せず、知るのが怖いという思いを抱きながらも、徐々に進む病状に対し、不安感がつのりました。
今思えば、自覚症状がある本人自身の不安感は、想像を絶するものだっと想像されます。

平成17年になると、平衡感覚はさらに失われ、2月のある日、ついに、ベランダに登ろうとした母が、転倒しました。
隣の部屋にいた私は、何事が起きたのかというような物凄い音を立てて、母は転倒していました。
その怪我は、肋骨の何本かにひびが入るほどの重症でしたが、母がその通院をしたのは、その2日後のことでした。

もはや、運転も日常のことにも支障をきたし始めていたのに、私たちは気づいてあげられていませんでした。
恐ろしいことです。
日常の家事を一生懸命にしていた母のことを何も解ってあげられていなかったのです。

その後、5月の連休後に精密検査のための入院をし、それから10日ほど経った日に母の病名が告げられました。
「現在の医学では治療法が無い」と言う言葉と共に。

激しい絶望の中、母をなだめたことを今もはっきりと覚えています。

当時、母は父と不仲でした。
だから、母の通院には知り合いの男性と私とが付き添いました。

私と弟から父にも病気のことを告げましたが、当時の父には、心情的に母の病気のことは上手く伝わらなかったようで、私も当時は、父に嫌悪感を抱いていました。

「進行性核上性麻痺」とは、小脳にある神経細胞が徐々に死滅し、その細胞に関係する機能が失われていくという恐ろしい病気です。
つまり、やがては歩けなくなるし、話すことも食べることにも支障をきたしてくる病なのです。ことによると、私たちの記憶まで無くなるかもと言う不安さえありました。

病気のことが解った時に、母と話して決めたことがありました。
主なことは今後の治療方針です。
病気に対しての特効薬や手術はありませんが、運動機能などのリハビリで、症状の発症を遅らせることをすることにしたのです。

検査入院した病院のアドバイスで、各役所に手続きに回りました。
保健所に「特定疾患医療受給者証」を申請し、市役所には介護申請をしました。他に「重度心身障害者医療費受給者証」の申請も市に行いました。

母は、当時、すでに還暦を過ぎたところでした。障害年金を選択しようと思った時は、病気が解っていなかったときにすでにしていた年金の受給申請の関係で、時すでに遅しでした。
たぶん、どの専業主婦も年金の受給年齢になった時に考えるのは、そんなに貰える訳ではないのだし、いつまで生きられるか解らないのだから、早めに受給を受けておくかということだと思いますが、母もそう考えた訳です。
症状が現れたのが、61歳だったこと、しかも、父との関係が余り良くなかったことが、原因でした。

母の最低限度の望みは、自分で歩いてトイレに行くことと、口から物を食べることでした。延命治療などはこの病になる前から望んでいませんでした。

そこで、母とは、時間があれば、歩行の練習のために、近所を散歩に行きました。もちろん、上尾にある埼玉リハビリセンターや他の病院にリハビリに行くこと、鍼灸治療なども始めました。

あとから感じたことですが、身体の耐え難い痛みが無くなると、その部位の麻痺が起きてきました。リハビリは、その年の終わりには行けなくなりました。秋を過ぎて、歩行がままならなくなってきたのです。驚くほど進行が早く感じました。

翌年の春にほぼ寝たきりの生活を余儀なくされ、音声・言語機能喪失、体幹機能障害(歩行困難)の身体障害手帳の申請を県に行いました。その頃は、もう流動食しか食べることができず、ほぼ寝たきりになっていました。

最初の頃は、ケアマネージャーさん選びやトイレのこと、寝る姿勢の調整などに苦しみました。その頃は、父が協力してくれるようになり、とても助かりました。

国の制度の改正で、介護制度が変わり、そのためにケアマネージャーさんの交代を余儀なくされたこともありました。お世話になっていたケアマネさんの事務所が、いわゆる老人の託児所のようなセンターになるということで、病気やけがにより介護が必要になった人を扱えなくなったということでした。

介護には、年齢によるものと、身体が不自由になることにより受けるものの二つがあり、この問題は少なからず現場の職員の考え方にも影響を及ぼしていました。最初に依頼したケアマネさんは、後者のケースを理解できておらず、介護を受ける人のわがままと判断をされる方で、介護ポイントの消化を促す営業的な方でした。

制度が不整備なので、本当に悩んだら、ちゃんと話しあい、依頼することの大切さを痛感しました。そして、次に大切なことは、介護を受ける方の気持ちを理解してあげることです。意外に要求していることを理解してあげると、制度とは必ずしも一致しておらず、しかし、特段の無茶なことは要求していないものです。

例えば、介護制度では、デイケアという制度がありますが、それは、リハビリと共にカルチャーセンターなどの受講を義務付けていました。
しかし、母は、リハビリは受けたいと考えていましたが、病気の関係で、カルチャーセンターなどの受講は、無理でした。
送迎を受けることも長時間センターに居ることもしたくないが、リハビリを受けたいという要求に、介護の制度は準拠しておらず、結局、リハビリを受けられる病院に連れていくことにしました。こちらは、医療保険制度を適用することになります。

しかし、こちらの意思をちゃんと説明し伝えれば、対応してくれる病院は、いくつか見つかります。

次にしたのは、家の改築、そして、車いすやベッド選びでした。
家の改築は、都合5か所でした。

お風呂場…滑りにくい床、安定性の保てる浴槽
トイレ…ウォシュレット、転倒防止の補助手すり棒の設置
玄関…昇降機の設置
二階母自室までの階段…階段昇降機の設置

車いすは、その幅が5㎜刻みであり、背もたれの長さや、座り心地など、選択の幅も広いものです。食事に座るもの、移動時に座るものと2種類をレンタルしました。

ベッド、一箇所がくぼむもの、二箇所のものがあります。できるだけ、利用者の希望に合うものを選んであげたいものです。また、そこに敷く、マットレスにも色んなものがあります。
エアでランダムに優しい凹凸が出て床ずれが防止できるものや堅さも寝心地に大きく作用します。10種類以上を試し、納得できるものを選んであげました。

食事の流動食は、いろんなものがあります。
和食メニューもありますし、洋食もあります。
しかし、こういうものは、飽きられやすく、また、食事を楽しむことが、唯一の楽しみでもあるので、私は、おやつに凝ることとしました。カボチャやゴマ、ミルクのプリン、色んな季節に応じたフルーツが入ったゼリー、杏仁豆腐などです。

薬は、ピルクラッシャーと言うものを購入し、これで砕いて、それをバナナなどに絡め、ゆっくりと食べさせました。

意外に難しいのが、水分補給です。
嚥下障害が進むと、スポイトの要領でストローを使い、ゆっくりと舌に沁み込ませるように、与えるようにします。決して焦ってはいけません。むせるのが一番つらいことなのです。

そして、病状が進むと難しい日常のことに、歯磨きと浣腸があります。口を濯ぐのが出来ないので、顔を下に向けて、水を送るドルツの口腔洗浄機を利用しました。これもむせさせないように注意してあげてください。

浣腸は、週3回実施しました。
これは私は苦手だったので、父に任せていました。

歩けなくなった後、暫くは、トイレやベッド脇にポータブルトイレを設置することもしてみましたが、寝たきりになった人を担ぐのは、生半可なものではありません。腰を痛めたり、奥歯にひびが入ったりします。最終的に母の理解を得て、紙おむつを使用させてもらいました。

約4年間の介護でしたが、あとからこれもしてあげたかった、あれもしてあげたかった、あの時、こうしてあげればと、後悔しまくりました。しかし、父さんは良くやってくれました。
母が亡くなった朝、亡きがらの傍らで泣いていた父の姿は、母の死と同様、今でも心に残っています。

世の中には、まだまだ、原因やその治療方法が解らない病気が、沢山あります。親孝行は、生きているうちにしてあげたいものです。

昨夜「49日のレシピ」を見て、暫くぶりに母のことを思い出し、書きたくなりました。

by sumomojam39 | 2011-03-09 02:50 | 母の病