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あれから丸6年

今から丸6年前、私は父や弟と共に母のベッドの脇に居ました。
そこは蓮田市に在る東埼玉病院の病室。
ナースステーションのすぐ傍の二人部屋。
しかし部屋の患者は母一人。

母の事は以前にも書きましたが、特定疾患と呼ばれる不治の病「進行性核上性麻痺」でした。
もう寝たきりになっていて、会話も出来ず、嚥下障害のため、胃瘻手術を施すための入院でした。
体重は38㎏、もう限界と思われ、最初はしないつもりでいた手術を父が説得して受けることにしました。

朝昼晩、四六時中の介護の中、父は良く頑張ってくれました。
入浴の介助こそ手伝いましたが、歯磨き、トイレなど、根気の要る介助は父が中心に行っていました。

胃瘻用のミールを通販で購入し、吸引機器も揃え自宅介護の準備も整え、退院の日を待っていました。
しかし、手術後、母の身体は微熱が続き下がりませんでした。
後から思えば、その微熱が続いていたのは入院する前からだったのかもとも思われました。
しかし、その微熱が続いていたのが母の体力そのものだったようです。

入院は2月24日、26日に胃瘻の手術が行われました。
胃瘻の手術をした後、その介助方法のレクチャーを受けた父が母に付き添いました。
私は都内の会社勤めを4時半で早退させていただき、毎日見舞いに行きました。
東埼玉病院へは蓮田駅からバスが出ていました。
面会時間は午後8時まででしたので、約1時間と一寸の見舞でした。

3月の11日が母の誕生日でしたので、その日ぐらいには退院できるかと思っていたのです。
しかし、その日を過ぎても母の熱は下がりませんでした。
そしてその約一週間後の19日、父が担当医の先生から説明文をいただきました。

現在の発熱症状は、唾液が気管に流れることによる肺炎と思われます。
気管切開(挿管)することで肺の方に唾液が流れない様にし、点滴で抗菌剤を送って熱を下げる様な治療を同時に行う事で改善することもある。
しかし、挿管の効果は不明で、逆効果の事も有ります。

ただし、抗菌剤の効果がなくなると肺炎が酷くなり死に至ることになる。
気管切開(挿管)しますとそれは最後までそのままになるとのこと。
つまり退院はない。


この説明文で判断できたのは母の寿命がもう日にち単位になったという事でした。
母がこの病と判明してから死についてはずっと覚悟をしてきたつもりでした。
しかし、実際に先生の説明文でそれを知らされると、愕然としました。
手を握るとかすかに握り返してくれたり、笑みを見せてくれている母。
その余命がもう僅かだという現実を受け止めきれない自分が居たのです。

私は父と相談し、母の実家の岩手の親戚に知らせることにしました。
気管切開はせずに、人工呼吸器はマスクに寄る方法にしました。

春分の日に母の弟や千葉に住んでいる妹が見舞に訪れてくれました。
おそらくその見舞が母の生前の最期のものになるのです。

その親戚たちを病院の玄関まで見送った父が病室に戻ると母は泡を吹いていたそうです。
それは酸素ボンベに寄る予期された副作用でした。
酸素ボンベを使うと自発呼吸をサボるようになるのだそうです。
初めから酸素濃度をあげてしまうとその副作用も早く出るとのことです。
呼吸をサボるとカラダに二酸化炭素が充満してしまい内臓機能が損なわれてしまうのだそうです。

泡を吹いたという連絡を受けた私は本当に慌てました。
いつもは自転車で向かっていた通院を急遽タクシーを使って行いました。
私が駆けつけたとき、すでに母の病状は落ちついていました。

本当の覚悟はこの時にしたのかも知れません。

それから新たな段階に至るのに約一週間目の3月26日。
担当医の説明文が提示されました。

本日より意識レベルが下がっている。
AM9時ごろ、SpO2値(血液中の酸素飽和度)が60%まで下がっていた。
首の向きを呼吸しやすい様に調整し90%まで回復したけれど呼吸運動が弱くなっている。

呼吸状態がこのまま悪化していくと体が酸性化します。
全身の臓器障害をきたし、呼吸停止、心停止、腎不全(無尿)を起こし、死亡する可能性が高い。
突然の急変も有りうる。

ここ2・3日が山であると伝えられました。
そんな思いで迎えた27日の夜でした。
母の手を握り体温を感じながら一夜を明かしました。
時折、母の手には力が入り私の手を握り返してきていたように思います。

弟と父と交代で仮眠をとり母の事を見守りました。
明け方近く何となくホッとする時間が有りました。
弟が一旦着替えを持ってくるかと私たちに話した数分後、母の容態が急変しました。
それは痰の吸引でマスクの向きを変えた直後に起こりました。

病室に非常を知らせるブザーが鳴り響く中、私は看護婦さんを呼びに病室を出ました。
丁度、夜勤のナースさんと朝のナースさんの入れ替わり時間だったと思います。
隣のナースステーションは空。
先生とナースさんが駆けつけたとき、母はすでに心停止状態でした。

母の名前を呼び続け泣いていた父をそこに残し、弟と私が先生と面談しました。
検体の話がされましたが、お断りしました。
2008年3月28日午前6時55分、母が亡くなりました。
そのあと、看護婦さんがカラダを拭き、綺麗に化粧をして、霊安室に運んでくれました。
母の棺を葬儀屋さんが乗せ弟が助手席に乗り、私は父の運転する車に乗り、二台で自宅に戻りました。
病院の桜並木が満開だったのを今でも覚えています。
明日は母の七回忌です。
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by sumomojam39 | 2014-03-27 23:20

ダメなものを自覚した秋

10月に入って、もう今年も終わりに近づいたなと言う感じになっている。
政治は常に与党と野党の勢力争いばかりで、テレビも改編時期のため、特番ばかり。カレンダーはすでに調達済みで、次は年賀状作成用のカラープリンターの調達をしている。手帳も来週中には納品されるようです。

先日、ポタリング先で、半年以上怪我に苦しんでいたネコの訃報を訊き、気持ちが少し沈んでいたところ、その地に新たな捨てネコを見てしまった。
しかも、まだ生後3か月くらい、オスとメスがそれぞれ一匹ずつ捨てられていた。
9月の後半の連休前の時期だったらしく、ネコは人懐っこく、私の前にも姿を現した。飼ってやりたい衝動に苛まられ、しかも、気温は急激に秋に変貌していた。

小学生の子供たちが、自分の家では飼えないので、基地に連れて行くとか話していたが、ネコは彼らを嫌い、逃げて行った。彼らが諦め、帰って行ったところ、ちゃっかり姿を現したネコは私に纏わりついてきた。
ついにトリガーが外れ、私はネコを抱き、自転車で連れて帰ってしまった。
父と二人で住む我が家は、公園からおよそ5キロ、ネコは私の方に抱きつき、ニャーニャー鳴いていた。連れて行ったのは、考えた挙句、メスの方にした。

父はネコを嫌いではなく、受け入れてくれたが、世話は私に任された。
アマゾンの箱にバスマットを敷き、そこに首と肩を温める肩掛けを入れ、ネコの住まいとした。ネコは、外で心細かったらしく、その箱の中で寛いでいた。
家にはネコにあげられるようなものがなく、エサは食パンをちぎったもの、そして、ミルクを与えてみた。ミルクは口にしたが、食パンへの反応は薄かった。

父は翌朝、ネコ用のトイレ、爪とぎ段ボール、ネコ砂、エサを用意してくれた。ネコは玄関に置かれた箱の中で、約1日はおとなしくしていたけれど、やがて行動的になってきた。人が歩く場所をついて歩いたりすると、トイレのことが心配で、とても気が気ではなかった。
エサを食べると、さらに不安は増し、注意はしたが二階への階段も何度も上がってきた。最近のネコ砂は無臭で少し安心していたが、それでも、大の方の不安は、常に付きまとっていた。世話をすることへの不安からネコの里親探し登録もした。

そして、恐れていたことが起きてしまった。
部屋に勝手に入った挙句、仏壇前の座布団に座ったのだ。
この態勢はヤバい。と、とっさに察知した私は、ネコを抱きかかえ、廊下に飛び出した。ネコは、廊下を出た瞬間に大を始めた。
一本、二本、・・・そしてゆるいもの。
あっけらかんとしたネコを叱る間もなく、トイレットペーパーを握りしめ、ネコのそそうの後片付けをした。強烈な悪臭・・・。
おそらくゆるいものはミルクの所為だろうと思われた。

完全にキレた私は、ネコを叱りつけた。移動は禁止。
しかし、ネコは一人になるとさびしくなるらしく、いたずらは何回も続いた。

父は、食べ足りないのじゃないか、と言ったけれど、ネコは自分に興味をそそりたいだけで、食欲はそれほどなかった。その証拠に、見ていると平らげて見せたが、その場を離れると、必ず食べ残しをした。
約十日、飼ってみたが、毎晩、一人になると、アクアリウムの水槽が乗っている下駄箱の上に乗り、そこらじゅうのものをひっくり返し、プレコ用のエサの入った袋へのいたずらを繰り返した。終いにはアマゾンの段ボールに入ることなく、玄関の好きな場所で過ごすようになってきた。
これ以上、しつけ用もなく、里親からの連絡も一向にない。
さらに、部屋中に籠る異臭にナーバスになってきた。
可愛いと思っていたネコへの思いも、徐々に薄れ、繰り返されるいたずらに、腹が立ってきた。

世話は嫌と思ったことはないけれど、ネコにとって、部屋で飼うことへの限界を感じてきた。私も父も構ってやることには限界がある。当然、ネコはストレスを感じるだろう。気持ちは急激に冷め、野良の子のさばけ具合が心地よく感じてきた。依頼心が強すぎるのと臭いは、私には耐えられなかったのだ。

父にネコが夜いたずらを繰り返していること、私では面倒見きれないこと、そして悪臭に耐えられないことを正直に話した。
エサ入れやトイレの処理を毎日やることはしてあげられても、ネコの依頼心を満たす包容力は、私にはなかった。そして、このままではネコに対しての殺意さえ抱きかねない心境にまで追い詰められていた。

今朝、晴れ上がった外を見て、ついに決心した。ネコを離すことを。
ネコを外に連れ出したが、ネコは離れようとしない。
可哀想だけれど、ホースでシャワー状にした水をかけ、ネコを追い立ててみた。しかし、ネコはまだついてきた。ネコを脅し、離れさせ、部屋の中にあったものを全て洗い、ネコ砂などを処分した。
私は今回学んだ。

私にはネコは飼えない。少なくとも、私は依頼心の強すぎるものと臭いがきつすぎるものには、自分が耐えられないということを。
寂しさよりも、安堵した気持ちがあることが、悲しいけれど本音である。
ネコにとっても私に飼われるのは可哀想なことなんだと感じた。
私は公園のネコとのドライな関係が一番なのだと実感した十日間になった。
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by sumomojam39 | 2011-10-06 22:03

ツイッターその後

速度の遅い台風被害が尽きない日本列島。
今回は、ツイッターに関する近況と私見を書きます。

ツイッターの用途

根本的な話ですが、ツイッターは情報入手手段ですよね。
そして、情報共有手段にもなります。
私の場合、地域関連の情報共有手段としたり、好きな内容の情報共有手段にもしています。まあ、大抵の方も同じだと思います。

フォロー数が増えた私の利用法

フォロー数が増えると、興味のない情報も多く見かけるようになります。
そうなると、自分が見たい内容に絞りたくなります。
例えば、近隣の情報、或いは、同じ番組を見ている方との情報の共有。
そんな時、ツイッターには、ハッシュタグという方法で絞り込むことができます。

ハッシュタグの功罪

フォローの有無に関係なく、同じ興味を抱く人の呟きがみられる。
逆に、ハッシュタグに関係ない呟きも見せられてしまう。

「RT」に寄る迷惑行為

ツイッターにはRTという情報を広げる手段があります。
これは悪く作用すると、チェーンとかスパム的なものになります。
本来は、自分をフォローしている方への情報共有手段なのに、ある種の運動行為として運用されてしまうのです。

これが、実にウザいのです。
モラルがない、それを食い止める方法がない行為というのは困ったものです。
その行為をされている側の方に、悪意はないのかもしれないのですが、受け取る側には、五月蠅いというものが多くあります。

ケース1、ペット探して依頼

「ペットが居なくなったので探して」という呟きをして、「それをできるだけ多くの人に広げて」と、依頼している呟きを頻繁に見かけます。
それに寄り、同じ内容のものを何日間も「RT」で見せられるのです。

読む側の気持ちとしては、最初は気の毒に思います。
しかし、毎日これを見ることになると、いい加減、もう諦めた方が良いのではと、思わされます。
もしかすると、もう見つかっているのにその呟きはされていなかったり、「RT」している人が、好意でその情報を知らずに広げてしまったりするケースもあると思うのです。
この手の呟きは、RTで同じハッシュタグに数分おきに出ていると、「オオカミ少年」効果が発生します。そうなると、もう呟いても効果がなくなると思うのです。
飼い主のパニックな気持ちは理解できますが、RTの運用には、もう少し公共性のある内容に限定すべきだと感じます。

公共性とは、震災時の救命行為とか、毒を持つペットが逃げたとかの内容だと思います。そして大切なのは、それらの収拾情報も責任をもって掲載することです。投げっぱなしは迷惑です。

ケース2、デモ運動の周知行為

ある局に対するデモ運動への参加要請やそれが報じられないことの周知行為としても「RT」が使われています。
気持ちは理解できます。
でも、段々とエスカレートしている様が逆に気持ち悪いのです。
まるで、勧誘活動や布教活動のように。

情報の中には、報じられないものがあるということは、十分に理解しています。判断は、自分自身で行うべきもので、見たいものは見るし、見たくないなら見ない。さらに、信じるか信じないかは自分次第で、見知らぬ相手に働きかけられるのは、大抵の人は、不快に感じるのではないでしょうか。

例えば、韓流アレルギーは、理解できます。
BSなんかでも、韓流や通販がかなりを占めています。
地上波でも、ほとんどの局で韓流ドラマが存在しています。
いったい、この国は、日本なの?!という気持ち、良く解ります。
でも、選ぶ権利は、視聴者にありますよね。

また、現在の政治家、特に与党の献金の可笑しさ(ある種の疑惑)は理解しています。それが嫌なら、そこに投票しないということで、それが自分の意思表示になりますよね。

知らずに応援している身近な人がいるとしたら、呟きでなく、その人だけに直接知らせばいいのです。

個人主張をしたいなら

個人的な見解をツイッターで強いるのは、迷惑行為だと思います。
見ている番組に関係ないことを見たくないから、ハッシュタグを使うので、そこに関係ない呟きを割り込む行為は、ツイッター暴力です。

せっかくツールは充実しているのですから、ちゃんと用途を考えて使い分けてもらいたいと思います。そういうことに使うのは、ツイッターでなくブログでしょ。

頻繁に見かける呟きは、マインドコントロールでもしているんじゃないのかと疑う気持ちが出てきます。それはRTをされる方の本意なのでしょうか。

利害あるものにはバイアスがある

私は最近地上波のワイドショーは見ないようにしています。
メディアにはみな利害が絡んでいます。

バラエティ番組の多くは番宣ツールと化しています。
民放の番組には必ずスポンサーが存在しているのですから、それのマイナスになる情報は流されません。そんなことは、みな常識ですよね。

つまり、バイアス(偏向)は必ず存在しているのです。
これは誰が得をする情報なのだろうかと考えながら見れば、相手の術中から逃れることができます。

NHKと言えども

受信料でやりくりしているはずのNHKでさえ、取り上げられない内容があるということをこの年齢になって初めて知りました。
国会中継で放映されたことでも、(NHKが判断するところの)不確かな情報は、ニュースとしては扱われないということのようです。
ある種の国益という名のバイアスなのかもしれません。

ただし、ETV特集などの原発などの特集は、政府寄りの見解でなく、比較的オープンに報じられているように感じます。
いずれにしても、見流すようなことはせず、考えてみるということが肝要なようです。

知りたい情報の囲い込み方法、リストとは

リストとは、フォローしている人のうち、自分が追っていきたいと思う方のみをリスト化し、タイムラインを閲覧する方法です。

具体的には、ニュースなど自分はフォローしているけれど、相手からのフォロー返しはないという類のメンバー、良く双方向でやり取りする人、モラルがある人(前述のようなことがないという方)などをリスト化すれば、不快な思いをする頻度が減らせるというものです。

ブロックとリムーブ

実際、不快なタイプの呟きをされる方の呟きを見ない方法には、二種類あります。

1、自分の方だけ非表示とする。
フォローを辞めるリムーブという方法があります。

2、一切のツイッターやり取りを辞める。
相手の自分に対するフォローを強制的にリムーブさせ、自分のコメントをその方を限定して見せないようにするブロックというものがあります。余りに強烈なので、自分が酷いことをしたという、罪悪感が残ります。

片思いの解消方法

フォローしていただき、それに返した後、フォローを外す方もたまにおられます。おそらく自分へのフォロー数を増やすことを目的とされている方の行為だと思います。私はそういう身勝手な方のフォロー外しをは、こまめにするようにしています。

チェック方法と解消方法をご紹介しておきます。

私は、二つの方法を知っています。

一つは、「ついっぷる」というBIGLOBEの関係のツイッターを見る方法の中にあるフレンズというところを使う方法です。

http://twipple.jp/

上記のアドレスで、ついっぷるが開きます。
そこの上段に、ホーム、アカウント検索、トレンド、フレンズ、フォト、イベントと並んでいる中のフレンズを開く方法です。

これを開くと、トップ、フォローされている、フォローしているというメニューがあります。

そこのフォローしているの中の「片思い」というところをあけると、そこにあるものは、全て自分からの一方的なフォローの方々になります。

逆にフォローされているの中にある「片思われ」というところには、先方からフォローされているけれど、訳あってこちらからのフォローをしていない方が確認できます。まあ、訳がなければ、単なるフォロー返し漏れということになりますけれど。

さて、片思いの方のフォローを外すのは、次の方法です。

1、アイコンの上にカーソルを持っていく。
2、「+一括アンフォローに追加」を押す。
3、「×一括アンフォロー」を押す。

これが一番簡単な方法ですね。

さて、もう一つは、英語のサイトです。

そちらもご紹介しておきます。

http://manageflitter.com/connect/reconnect

managefitterというサイトです。

connectしますと、UNFOLLOWリストが出ます。
これがつまり、ついっぷるの方でいうところの、片思いのメンバーです。

こちらのフォロー外しの方法も紹介しておきます。

1、expandというところのチェックボックスに「V」を入れる。
2、右側にある「unfollow _ Selected」を押す。
 ※ _ のところには、1で「V」した人数が入ります。

これであっけなくフォローを外すことができます。

モラルをもって楽しく使う

マスコミの節操のなさは今に始まったことじゃありません。
世の中のカオス状態(政治のこと、原発のこと、震災のこと、不況続きなこと)で、みんなが不満を抱いています。けれど、ツイッターを不満をこぼす「愚痴ツール」にしたら、せっかくの便利な情報共有道具が、見たくない、使いたくないツールになってしまいます。
哀しいこと、もったいないことです。
みんなで、ここにはこんな良いところがあるよとか、今、良いのやってるよとか、そんな情報ツールにするのがハッピーな運用方法だと思います。
私は撮影した写真をフォト蔵にアップしながら、ツイッターで公開する使い方もしています。写真は、ネコだったり、風景だったり、TPOを考えてアップしています。猫を見て心穏やかになってもらったり、風景を見て季節感を味わってもらったり。それに対して嬉しいコメントをいただくと、嬉しいものです。ツイッターは、そんなツールにしたいのです。

新ツールがよく解りません

さて、もう何か月も前にFacebookも始めました。
しかし、未だに使ってません。
いまいち用途が解りません。
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by sumomojam39 | 2011-09-19 05:44

今年も残り4か月

9月に入り、台風12号が各地に不安定な天気を齎しています。
完全に秋になりました。
9月の声を聴くと、カレンダーは、もう残り2枚、そして、次のカレンダーの発売開始の時期になります。私の場合、カレンダーと手帳を新調するのがこの時期の決まりになっています。
そんなわけで、ほぼ日手帳のサイトに確認に行くと、やはりすでに発売が開始されていました。私の場合、すでにカバーは3種類(革製、布製、プリントもの)所有しているので、中身だけを新調しています。

そして、出遅れると、あっという間になくなってしまうのが、お気に入りのカレンダーです。私は、六曜や二十四節季などが掲載された美しい景色のものが好きなので、山と渓谷社のカレンダーを好んで購入しています。値段は、1,500円以内で、他にネコや仏像などのものもあり、常に迷います。
私が購入するのは、自室と第二のプライベート空間になるトイレに飾るものです。トイレにカレンダーは不可欠です。できれば、脱衣室にも欲しいところですが、昨年から我慢しています。

季節が変わると、気持ちにも変化が表れます。
買い物をしたくなったり、旅行に出かけたくなったり、美味しいものを食べたくなったり、新たなことを始めたくなったりします。
昨年はポタリング以外何処にも出かけなかった私ですが、今年は、少し心境に変化が起きました。

母の病気が解った5年前、その母が亡くなった3年前、仕事を辞めた2年前、振り返ると、私が楽しい旅行をしたのは、もう5年以上も前のことだったのです。
私の家は、少し複雑な環境でした。
両親が不和だったのです。
母と私の日帰り旅行の同行者は、父ではなかったのです。

父は仕事人間でした。
というよりは、まじめな人だったのです。
そんな父を尊敬はしていましたが、やや古い考え方の父に反発することもしばしばありました。

母は、30年前に春日部に引っ越してから、手編みの仕事を生業として、家計を助けてきました。その前に住んでいた八潮市の頃は、パートで編み物の仕事をしていたのですが、その支店として自分で編み子さんをみつけ独立したのです。しかし、母を家に閉じ込めていたかった父との関係が思わしくなくなりました。

父には自分の考えを他人に押し付ける性質がありました。
子育ても終わり、19歳で結婚し20年目、母にも父の束縛から逃れたいという思いが芽生えていたようです。思えば、母がそのような思いに至ったのは、運転免許を取得し、世に出始めた頃、そして、それが新天地に移ることで助長されていったのです。

別に浮気とかをしたかったわけではなく、自分のそのような考えを理解してくれる人を求めていたのかも知れません。まだ幼少期の頃に父と死別し、継父と異父妹弟との間で育った母は、「父親」のような存在を求めていたようにも思います。

しかし、亭主である父は、自分以外と母との交友を許しませんでした。
そんな父への反発する思いがすれ違いとなり、余計二人の関係を悪くしていきました。当然、家の中、家族の中も、ギクシャクしていきました。
5年もすると、家庭に冷めた弟は母を名前で呼ぶようになり、父はそれまで以上に煙たい存在になっていきました。

私は、春日部に移転したのちの約一年後の高校を卒業後、父の勤務先の社長方に居候し、専門学校に通っていましたので、そんな家族の関係に気が付いたのは、もう関係修復が難しくなった2年後のことでした。
すでに、社会人になっていた私は、夜間専門学校に通っていたこともあり、それから10年間、徐々に心が壊れつつも、現実を払拭するかのように、仕事に邁進してきました。

そして、約10年後、もう何もかにも嫌になりました。
東村山の会社を辞め、その後、昼の専門学校に通い税理士試験にチャレンジするものの、年齢とともに衰える記憶力と、受験意欲をどうすることもできなくなっていきました。
おそらく、そんな私のことを母が付きあっていた人も察したのでしょう。
その人は、自宅に引きこもっていた私のことを、母と共に外に連れて行くようになりました。
ある時は、競馬場、パチンコ屋、そして、日光会津方面への日帰り旅行へと。

その人には、妻と娘が二人おりました。
年齢は、父よりも一つ下。飲食店を営んでいたそうで、そこで定期的にカラオケを指導されておりました。奥さまは、社交的な亭主と生徒たちの関係に嫉妬し、その人が趣味で飼っていたアクアリウムを台無しにしたり、釣竿を折ったり、家からの締出しなどを頻繁にされたようです。

そうしたことが繰り返され、気持ちはすでに離れ、家から出て行き、住む処さえなかったのです。中古車と健康センターとを生活拠点とし、日中は、母と生活のためのギャンブルで収入を得ていたのです。
競馬場に行くと、信じられなくくらいの掛け金で万馬券、パチンコでも二人は常勝でした。

二人は、私にそんな暮らし方を隠し立てもなく見せてくれました。
母には、自責の思いもあったようで、何もかにもが嫌になっていた私に心を取り戻させようと、必死でした。最初は母に妻子ある人との関係を思い直すように促していた私でしたが、徐々に母の寂しい思いを知ることになり、そんな母の思いを理解しようとしない父への反発心が、芽生えてきました。

私には、父と遊んだ記憶がほとんどありません。
父は、私が幼い頃、塗装の職人として、土日祭日も関係なく、働いておりました。父との記憶は、たまの休業日にデパートに出かけたこと、社宅住いだった頃の銭湯や外食に行ったことだけです。
父と私の関係には、常に母がいたのです。
ですから、母と父とが疎遠になると、私と父との関係は、皆無になってしまいました。父は、父親というよりも母の伴侶だったわけで、そんな関係から、私が仕事を辞め、ひきこもった際にも無関心な人でした。
母に私に対する不満や愚痴を言っても、私の思いを理解しようとは考えなかったようです。母は、私の『父親』になりきれないそんな父のことを軽蔑していました。悪循環でした。

私は母が交際していた人のことを母がそう呼んでいたように「先生」と呼んでいました。先生は、父と同様に口数は多くないタイプの人でしたが、私のことを不快にさせないように気遣いをしていました。そして、私の深層にあったわだかまりのようなものを徐々に氷解させていきました。母は、それまで家では見せたことがないくらいの姿を見せ、私を何度も驚かせました。

おそらく母は、「先生」と出会って生まれて初めて自我を開放されていったのだと感じました。三人での日帰り旅行は、実にスリリングでした。
父が帰宅する前にさもずっと家にいたように装ったり、外出の日は、まるで監禁場所から抜け出すような感じで出て行きました。

弟のことも誘ったのですが、弟には理解できなかったのかもしれません。
私はそうした二人のおかげで2年後の5月に社会復帰しました。
私の再就職に合わせるように、弟が家を出ていきました。
表向きの理由は、朝が苦手な弟は、通勤が楽な都内で自活するというものでしたが、おそらく父と家族との板挟みの関係に疲れ果て、家を出て行ったものと想像されました。

税理士試験挑戦をあきらめた私は、それまで以上に仕事に邁進していきました。会社の公開をするために、夜昼関係なく仕事してきたことで、半年後にはジャスダック公開に漕ぎ付かせることができました。

しかし、身体に相当無理が来ていたようで、その後、尋常性乾癬という病にかかってしまいました。公開から半年後、私は緊急入院を余儀なくされました。皮膚呼吸ができない状態まで、乾癬が悪化していたのです。
時は、平成12年(2000年)、私は36歳になっていました。
初めての病気による入院、思えば、この頃、会計制度が大きく変化し、キャッシュフロー会計など、自分が簿記を学習し始めた頃にはなかったものが続々と登場し始めていきました。公開会社に義務付けられる四半期開示、そして、それに伴う大きな心労もあったのかも知れません。

それから、5年経過すると、母に異変が起きました。
本人曰く、感情の起伏が激しかったり、平衡感覚に異常を感じ始めたのです。
MRI検査などをしましたが、一向に原因がわかりませんでした。
原因が分かったのは、2006年の春でした。
母は、特定疾患に指定されている病、「進行性格上性麻痺」という不治の病に侵されていました。

その事実が判明後、間もなく会社都合でそこを辞めることになった私は、新たな職場を探すのに、初めて職安以外の手段を選択しました。エージェントに伴われ、紹介された会社は、驚くことにまるで紹介時に内定されていたかのように、面談で即決されてしまいました。私がその会社のことを理解する前に会社は、緊急に経理の引継ぎ者を求めていたのです。

結局、母の介護を伴う私の環境を考えず、私の採用を即決した東証ナスダック2部上場の会社は、その年の春に社長が突然解任され、顧問していた監査法人もさじを投げ、開示報告の時期に6人の経理がその中心人物も含め、ほぼ全員が辞めていくという緊急事態にあったようです。

余りに無茶な会社のニーズと家族に介護を伴うという環境の変化もあり、そこは、翌月に退社、私の再就職は難航しました。約2か月後に新たな勤務地を捜しました。まるで、結婚詐欺にあって戸籍を汚すかのように、私の履歴書は汚されてしまいました。おかげで職務経歴書での記載が面倒になりました。

父と母の関係は、母の病気の進行と共に修復され、『先生』と父と私の弟と私とで、母の介護を分担していきました。信じられないようなことでしたが、それほど母の病は、家族に衝撃を与えたのです。

介護の甲斐なく、母は3年前の春に他界しました。
そうして『先生』と私の家族との関係は、終わっていきました。
先生に最後に再会したのは、母の三回忌。
皆それぞれの喪失感を抱きつつ、3年半の月日が過ぎていきました。

秋の空模様を見ながら、ふと生前の母のことを思い出し、つらつらと書き綴ってしまいました。秋はそんな季節です。
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by sumomojam39 | 2011-09-02 17:27

税理士試験を目指して、8

今朝は、久しぶりの梅雨のどんよりとした空になりました。
昨日まで、連続4日間、朝ポタを続けてきました。
途中、地元小学校の近くを通るコースなのですが、この季節、プール授業だったらしく、あの子供たちの賑やかな明るい声や笑いが聞こえてきました。
灼熱のアスファルトを走行していたので、とても羨ましいものでした。
学校時代、泳ぎが得意ではなかっったことからプール授業が嫌いで、中学や高校の頃は、如何にサボるかを考えていたのに、皮肉なものです。

2年連続で合格できた税理士試験ですが、税法の受験生活は、このあといばらの道となりました。
3度目の受験時代、法人税法の上級コースに通っていた私は、同じ勉強をすることも、そして、就職した会計事務所の方での社会人生活も2巡目となりました。
それなりに担当の仕事を受け持たせていただき、前年の経験から仕事の段取りも理解できてきたことで、自分の仕事のスケジュールみたいなものも考えられるようになってきました。月に2件の決算がある時は、週ごとにどれだけ作業を進めていくべきか等も考えられるようになってきたのです。
そうなると自分から残業しなくちゃいけないこともわかってきます。
週2回の授業に行くことが苦痛に感じてきたり、通学日以外の復習も疎かになってきていました。しかも、簿記論を合格し上級コースの授業料に合格保証コースの返金額を充当したことで、何か喪失感みたいなものも感じていました。

年明け後の理論学習が始まると、例の授業初めに訪れる理論書きの時間。暗記ができていない私にとって何よりも苦痛な時間でした。今思うと、あの苦痛はそのあとずっと継続していました。午後6時20分から始まる授業でしたから、御徒町から水道橋までの所要時間を考え、5時半過ぎには事務所を出ていました。夕飯を食べてしまうと眠くなるので、何も食べずに、そしてアイスブラックの珈琲を持参して授業を受けていました。

直前期に入ると、授業は答案練習会になります。毎回、模試の連続で、そのたび、理論が2題出題され、それをほとんど書けない私は総合計算問題を解くと必然的に時間が余ってしまいます。もうその頃は、法人税法の理論にも、それを覚えられない自分自身にも嫌気がしてきていました。
そんなある日、授業を早退してしまいました。
早退しても家に早く着くわけにもいかず、途方に暮れた私は電車に乗らず、歩いていました。湯島を抜け、日暮里、鶯谷を抜け、気が付くと千住でした。残業もしないで、授業に出たのに…という思いが、何ともやり切れませんでした。このままでは今回の受験もダメだろうという考えが湧いてきました。

自分は何のために安くない授業料をおさめ、残業をせずにこんなことを続けているんだろうという思いは、やがて、自分が仕事だけに専念することができたらという思いに変化していきました。この思いは、その後、10年以上続いて行ったのです。

その年の受験が済むと、東京商科学院が税理士の受験校から公認会計士の受験校へシフトすることになりました。おそらく、理事長が公認会計士だったことや前々年から始まった合格保証コースの成果に対しての結果だったように感じました。やむなく、私はTACへと転校することになりました。
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by sumomojam39 | 2011-07-02 09:14

税理士試験を目指して、7

昨夜は、菅総理の人事異動説明などで、夜の番組の時間変更がありました。
結局、目途と言われている内容は、野党の協力が不可欠なのに、その野党との関係を悪くするだけの延命人事。NHKも特番の時間編成して会見を中継していましたが、途中でカットアウトしてしまうくらいの内容のなさぶりにあきれました。

さて、就職初年度の税理士試験のチャレンジは、試験休みという税理士試験受験者の宿命との初遭遇でもありました。試験休みっていうのは、税理士試験直前から試験日、そしてその翌日くらいを夏休みとして消化するもので、お盆にゆっくりと休みを取りたいとか、東北の夏祭りを見に行きたいとかは、できないような宿命なのです。

大抵の受験者は、試験の1週間前くらいに休みを取り始め、専門学校の自習室で缶詰めになって、追い込みの勉強をしています。休みで家にいても、勉強をする気持ちになりにくいので、学校の自習室に行くのです。そして、その時期はいつもにもまして自習室が埋まっています。

私の場合、前年まで学校のみの生活だったので、そのような勉強法が身についていましたが、就職するとそう簡単に長期の休みは取れません。税理士試験は、8月の前半に試験日となっていますが、7月の決算の会社などを担当していれば、それが済むまでは休めませんし、8月のように世間がお盆休みなどで、休むところが多いときなどは、クライアントも休みの場合が多く、前半に休みを取りすぎると、仕事にならなくなってしまいます。

有給休暇は、徐々に増えるもので、初年度の新入社員には、ほとんどありませんから、月一回、5回土曜がある時だけ、午前中出勤だったところを午後まで終日勤務して、振替休暇を取るなどの工夫が必要になります。それでも足りないときは、単なる休暇になります。当時は、手取り12万円くらいの給料でしたので、下手をすると手取りの桁数が変わってしまいます。
結局、休みは試験日の前々日くらいからで、正味3日間となっていた気がします。

そしてその頃はすでに上級コースを受講していた簿記論の勉強よりも法人税の勉強に必死になっていました。初日に簿記論を受験し、2日目に法人税法の受験。しかも、早稲田大学には前年のような知っている人に会えることは稀です。せいぜい専門学校の先生が見つけられればいい方です。受験会場でうちわやクリアケースがもらいたくって、色んな専門学校のパンフレットをもらったりしました。

そして、その年の受験が済みましたが、法人税法はほぼ間違いなくダメだったなと思いました。税法科目の出題形式は、理論問題が、A3判用紙5枚程度記入する2題~3題の出題と総合計算問題の構成となっております。そのうちの理論問題についてほとんど書けなかったのです。

そうなると次に何を勉強するべきか悩みました。
前々回に勉強し、不合格となった相続税法を受験するべきか、それとも法人税法を繰り返し勉強するべきか、しかも、一般コースとするべきか上級コースとするべきか。若しくは、所得税法の勉強をするべきか。
若しくはボリュームが少ないと言われていた地方税法の勉強をするべきか。

考えた挙句、法人税法の上級コースを受講することとしました。
理由は、実務に一番必要な税法科目だし、やはり直前年に勉強しているから、それが一番いい選択だと考え、しかも分納方式としました。

その年の12月の発表は、予想通り、簿記論だけを合格し、法人税法は不合格となりました。学校では、合格保証コースの手続きにより、授業料の返金を受け、それを1月以降の授業料に充当しました。
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by sumomojam39 | 2011-06-28 08:45

税理士試験を目指して、6

週が明け、今週は雨空で始まりました。
明日以降は、また厳しい暑さがぶり返すようです。
今年の夏は計画停電や節電、そして熱中症のニュースが盛んに行われていますので、私も充電できる扇風機を予約しました。
すでに、充電池なども準備済みなのですが、本番の暑さに耐えるのが、今から恐ろしい気がします。

さて、先週から始めた半生記「税理士試験を目指して」も6回目になりました。
税理士試験チャレンジの2年目、財務諸表論の合格、簿記論・相続税法の不合格が分かった私は、9月から法人税法の合格保証コース一筋で勉強してきました。
財務諸表論は運よく合格できたけれど、簿記論に落ちてしまったことが意外でした。それくらい当時は自信があったのです。
そこで、簿記論について専門学校の上級コースを受講することを考え、どの時間帯を選ぶかを検討しました。

当時、月曜と木曜の夜の授業で法人税を受講していました。年明けからいよいよ苦手な理論暗記が始まります。法人税法は、損金や益金の計算をする課税標準の計算、税金計算など、次々と新しい計算事項を覚えていかなければなりません。合格保証コースはつねにテストの結果が管理されています。
学校の授業以外の日にはその復習が欠かせません。個別計算問題集を何度も解きなおしたり、別表4と呼ばれる用紙への記入項目を暗記したりし続けるのです。そして、理論の項目とその中身の暗記も欠かせません。

しかし、簿記論も早めに勉強をしないとやばいと思いました。仕事もまだまだ事務所の足手まとい状態ですから、これ以上、曜日を増やして、残業をしない日を作るわけにもいきません。

昭和の終わり頃、当時はまだ週休二日制は定着していませんでした。もちろん給料も振り込みではなく、封筒による現金での支給でした。
そこで、日曜ロングコースと呼ばれる週一回の授業を受講することとしました。基本的に税理士試験のひと科目の授業は週二回の時間割でしたので、日曜ロングコースは、午前と午後の時間割で、一週間分を一日で行うというものでした。朝10時から午後の4時半までのロングコース、もちろんお昼には約1時間の休憩時間がありました。一度勉強したものを知っているクラスメイトがいない教室で受講するのは、これが初めての経験でした。

季節は過ぎて、5月からの直前期がその年もやってきました。
上級コースは、一般コースとは異なり、演習の回数も多くなります。
ただし、簿記論の場合、理論暗記がないことが、とても助かりました。

法人税法の勉強は、常に実務との税率等の違いに戸惑いました。当時は留保金課税や軽減税率、土地重課制度などの計算項目もとても複雑でした。これらは、実務ではほとんどやりません。私が勤務していた事務所のクライアントには不動産関係がなかったからです。ただし、クライアントのほぼすべてが同族会社で、つねにその判定をする別表2を書いていました。

公認会計士税理士の事務所勤務では、担当させていただくクライアントがあります。それらには、毎月の記帳代行処理だけでなく、決算書作成処理があります。そしてそれとは別に、暮れには年末調整、年明けには法定調書、償却資産の申告処理、そして、個人の確定申告という時期になります。つまり、暮れから翌年の3月までは、オプションの仕事が沢山あるという繁忙期と呼ばれる時期になります。

小さな事務所でしたが、私の担当させていただく法人や個人事業者が10社以上ありました。決算手続は、多い月は2社もあったりしていました。というのも、会計事務所は、決算期を繁忙期となる暮れから個人確定申告の提出時期からずらす傾向にあるからなのです。具体的には、12月から3月までは法人の申告時期とすることを極力回避しています。すると必然的に、ほかの月に申告時期が分散されます。就職初年度は、そのサイクルに慣れることと夜の授業に慣れることとが要求された初めての年になったのです。
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by sumomojam39 | 2011-06-27 13:14

税理士試験を目指して、5

この時間、どんよりとした曇り空です。
先ほど、都内に住んでいる弟から一時帰宅のDMが来ましたが、父が旅行に行っていることから、次週に変更することにしてもらいました。

税理士試験、最初の試験が終わり、私は、就職することにしました。
試験が済んだ翌月の9月からの就職というのは、この業界ではよくあることです。
東京商科学院の学長の推薦をいただき、公認会計士税理士の先生の事務所に勤務さえていただくことになりました。場所は台東区御徒町にあり、私の条件は、ただ一つ、夜の授業に通学させていただくことだけでした。

御徒町からですと神保町への通学もしやすく、先生の他は先輩が一人と奥さんだけのこじんまりとした大変家庭的な事務所でした。温厚な性格の先生は、私の世代からすれば、祖父のような世代で、先輩は私よりも一回り以上年長のすでに資格試験の勉強を断念されていた方でした。

初めて勤務した私には、何もかもが解らないことだらけで、しかも、財コンも初体験となりました。当時は、まだコピー機が入って間もない状態で、申告書はそのほとんどがカーボン紙を使った手書き、そして、そこに綴じ込む財務諸表や付属明細書のタイプ打ちを奥さんがされていました。

財コンは、ICSと言われる公認会計士の先生方の間で広く使われていたタイプのもので、当時はミロク情報開発(MJS)と二大勢力だったかもしれません。
財コンも仕事のやりかたも丁寧に教えてくださったのは、偉大な兄貴のような存在だった先輩で、時に授業のために残業を切り上げて行くことがつらく思った時期もありました。

2年目の勉強は、法人税法の合格保証コースというものに入りました。
合格保証コースとは、基本授業料を一定のノルマを果たして受験に失敗した場合、返金するという今となってはあり得ないくらいの制度でした。
しかも、当時のノルマは、授業に欠かさず出ることや模試も漏らさず受験することで、そのクオリティについては、特に定めもなく、先生が保証コースに入った生徒たちのために、マンツーマンのアドバイスをしてくださるというものでした。法人税法の勉強は、とても新鮮でした。かつ実務と並行して勉強することで、別表などを見る目もその後とは全く違うものだったと思います。

そして、12月の発表の時期が近づいてきますと、自ずと学校での空気が変化してきたように思いました。みな、授業を受けていてもそわそわとしているように感じたものです。中にはラストの受験だった人、イーシャンテンの人、我々のように初めての受験の人、数回受験していてもまだ未合格な人、人それぞれさまざまな条件の空気は、異様なものです。
そんな中には、受験した科目をまさかのために再度勉強されている方もいたのです。そういう方は、通常の場合、上級コースと呼ばれる復習として演習中心の授業を受けられるのですが、もう一度一からやり直すという人も当然おられるわけです。

いよいよ合格発表の当日になりました。
税理士の試験の合格発表は、国税庁からの封書で送られてきます。
中に科目名が入った枠の下の空欄に「ゴウカク」と書かれていれば、合格。その用紙がなく、「見当たりませんでした」的な内容の文書が入っていたら、不合格ということになります。
自宅に送られた封書には、財務諸表論と書かれた枠の下の空欄に「ゴウカク」と書かれた紙が同封されていました。
つまり、簿記論と相続税法には不合格になったということでした。

結果的には、財務諸表論を初年度で合格できたのは、私だけでした。
私はどちらかといえば、簿記論の方が自信があったので、意外でした。

翌日、職員室に行きますと、ずっと、教えてくださった先生、そして、その同僚の方々から、祝福されました。神保町の校舎の近くにあった「餃子屋」という店から出前が届き、それを肴にウイスキーで乾杯しました。
その晩、足元も怪しくなりながら、どうやらこうやら春日部駅までたどり着いた記憶が、今でも懐かしく思い出されます。

試験に合格しますと、その翌月、専門学校では合格祝賀会という催しがあります。受験生が一番楽しみにしている年間行事になります。
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by sumomojam39 | 2011-06-25 14:41

税理士試験を目指して、4

梅雨の晴れ間も本日限りとか。
このような猛暑を経験しますと、昨年のことを思い出します。

税理士試験を目指しても、4回目、いよいよ初めての受験体験の話です。
専門学校では、年を開けると理論の学習が始まり、理論サブノートと呼ばれる本の暗記が開始されます。私は、前にも触れたように、暗記がとても苦手です。
授業は、始まりの約20分間、理論書きから始まります。
それはA3版の理論用紙2枚程度にその日までに与えられている暗記課題の解答をひたすらに書くというもので、最低でもタイトル、そして、趣旨くらいは書けないとシャレになりません。とても苦痛な20分間なのです。

毎回、理論書きで始まり、そのあと、次の回までに暗記してくる課題の解説となり、ようやく計算項目の学習になります。応用期と呼ばれるそんな授業が1月から4月まで続き、そして、いよいよ直前期と呼ばれる時期へと突入していきます。たしか、税理士試験への申込時期がありました。
直前期とは、いわゆる総復習の時期にあたり、毎回、直前答案練習会が催されます。これまで学習した内容を網羅した内容で試験は作成されており、自分の弱点を確認し、その克服を進めるのが目的です。
そんな中、公開答案練習会という外部の人を含めた模擬試験会も催されます。
その専門学校が、本試験のヤマと呼ばれる公式な問題を作成するものなのですが、最終的に、担当の講師の先生が、直前答案練習会の何回目のものも本試験に出そうですとか、理論についても先生の予想を教えてくれます。

どんなにヤマを絞られても、暗記が苦手な私にとって、覚えられるのは5問くらいでした。そして比較的得意だった計算練習の方にウエイトが行きがちになっていました。

税理士試験は、3日間に分散されています。
初日の受験科目は、「簿記論」、「財務諸表論」と当時の記憶が定かではないのですが、税法科目のひと科目があり、それらのみの受験の場合は、立教大学が試験会場になっていました。それ以外の科目も受験する人は、全て早稲田大学が試験会場になっていました。それから「物品税法」に代わり「消費税法」が加わりましたが、当時は、まだ一般消費税に続く売上税論議の頃でした。

真夏の炎天下の中、試験会場には冷房などはありません。座っているだけで、汗が問題用紙や解答用紙にぽたぽたと滴り落ちていきます。文房具は、基本的には、黒か青のボールペン、ホチキスしか認められておらず、首に汗拭き用のタオルを巻いたり、頭に鉢巻を巻いたりして、12桁の電卓だけを頼りに試験に取り組みます。

私は、簿記論、財務諸表論、そして、相続税法の受験でしたので、早稲田大学にて受験しました。東武伊勢崎線、日比谷線、東西線と乗継、早稲田駅までの道のりをただひたすらにヤマを張った理論問題の暗記に努めていました。

帰りは、まるで魂が抜けたように放心状態で、あっという間に家路についたと思います。試験会場では、学校の仲間や先生と出会い、会場入場の受付時間には、それぞれの受験会場の列に並んでいくのです。この数時間で、一年の努力を答案用紙にぶつけ、そして、結果は暮れのクリスマス前まで待つことになります。

9月には新学期が始まることから、9月から年内は生殺しの状態になるわけで、次の勉強への切り替えが、翌年の受験のためのファーストステップになります。
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by sumomojam39 | 2011-06-24 12:39

税理士試験を目指して、3

夏至も過ぎ、次は7月7日の小暑。
昨日は連日の真夏日で、少し頬が日に焼けてしまったらしく、痛痒いです。

税理士試験を目指しての最初の日商簿記検定1級の受験に失敗した後、専門学校では、全経簿記の受験や全経珠算の受験など、生徒たちに次々と目標設定をしてくれました。知らない人から考えると、次から次へといろんな勉強をさせられるというような印象をもたれるかも知れませんが、税理士を目指す以上、これらのスキルは必要なことです。全珠連の3級の受験経験があった私ですが、全経の3級は少しハードルが低くなっているように感じました。もっとも実務では算盤はほとんど使いません。ただ、感覚として算盤の考え方のようなものは、決して無駄にはならない気がします。

全経簿記の勉強は、特にそのためのものってのは授業としては1回くらいだったように思います。全経簿記の場合、1級の上に上級というのがあります。税理士試験の受験資格には、その上級が必要になります。ただ、一般の方から見た場合、1級を持っていると、やはり、箔がつくようです。私は全経簿記の1級だけを持っています。まあ、日商簿記の小手試し程度で、やはり、その級のレベルは日商簿記のそれよりもワンランクくらい落ちる印象です。

そんな本来の日商簿記1級の勉強とは別のことをしながらも、本来の試験勉強の方も着々と遂行されていきます。具体的には、模試に次ぐ模試の連続です。計算問題ならば、新たなタイプの問題を模試で経験することで、本番の問題で初めてのものを減らすという意図があります。人間、試験当日に初めて見た問題というだけで、頭が真っ白になってしまいます。だから、そんな訓練をし続けることで、万が一知らない問題が出ても解答用紙を白紙にはしないという練習ができます。

また、会計学の問題は、理論書きの練習でもあります。計算問題と異なり、完璧な解答を作ることは困難です。しかし、これも数多くの問題を経験することで、正解に近い解答を書く工夫を覚えることができます。

そんな厳しい模試の連続を経て、6月の日商簿記1級に無事合格をすることができました。税理士2年本科の場合、日商簿記検定1級の過程を終えますと、次の税理士試験の勉強になります。
具体的には、それまでのクラス分けから通常の他の受講生と同じ授業を受けることになります。

税理士試験は、毎年8月上旬の暑い最中に試験が実施されます。
受験会場は、都内の場合、池袋の立教大学や新宿の早稲田大学で受験することになります。
そんなわけで通常の新学期は、9月に始まります。

当時、税理士本科では、税理士試験担当の先生が何人かおられました。
簿記論を教えてくださる先生や財務諸表論を教えてくださる先生、税法科目も科目ごとに先生がいました。
授業は、簿記論でも財務諸表論でも科目の時間割がいくつかあり、同じ科目にも何人か先生がいます。

最初に考えなければいけないのは、どの科目に挑戦するかということと、どの先生の授業を選択するのかということでした。
そのような悩みに対し、前年の10月に日商簿記1級をクリアした同級生たちのアドバイスは、大変役に立ちました。

税理士本科は、実に家庭的な環境で、いつでもわからないことを講師の先生に聞きに行けるようなクラスでした。たとえ、外部の受講生と同じ授業を受けるようになって、クラスはバラバラになっても、講師の先生たちは我々の名前や顔を覚えてくれていたのです。

私は、初年度に簿記論、財務諸表論、相続税法を受講することにしました。
講師の選択は、解らないので、最初の三か月くらいは、全ての講師の授業に潜り込んでみることにしました。これも、当時の税理士本科生の特権みたいなものでしょう。しかも、私の場合、通学時間が短く、受験勉強中心に生活することができたことも幸いしていました。

税法担当の先生の中には、現役の税理士の先生も数多くおられました。学校からすれば、外部講師ということになります。
簿記論、財務諸表論の場合、日商簿記からの続きもあり、すぐにこの先生の授業が分かりやすいと、選択することができましたが、初めて経験する税法の講師は、選択に悩みました。

しかし、当時、これも恵まれていたのですが、とても親身に指導してくださる女性税理士さんがいました。その先生は、税理士の勉強を始めると必ず目にする受験雑誌の常連だった山本守之先生のお弟子さんで、先生自体もその受験雑誌の出題を担当されているような方でした。

世代も近く、とっても親しみやすい先生で、授業以外の補習をやってくれるくらい親身な先生でした。先生は、空き教室を見つけ、有志の生徒だけのために問題を用意し、相続税法の計算問題は、数多く練習させていただくことができました。

初経験の税法の勉強は順調に進むように思えた頃、年が明けると新たな試練が訪れました。税理士試験の経験がある方のすべてが味わう理論暗記という壁です。元来、私は暗記モノが苦手な性分です。税法は財務諸表論とは異なり、一字一句が法律用語で、自分の言葉に置き換えることは禁じ手です。

もちろん、親身になってくれた先生はその理論暗記対策も伝授してくれました。理論問題の解答パターンの見出しから覚えることです。そのために京大カードなどに見出しを書いて、日頃から持ち歩くことにしました。

時代はまだ昭和だった頃の話です。
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by sumomojam39 | 2011-06-23 11:55