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あれから丸6年

今から丸6年前、私は父や弟と共に母のベッドの脇に居ました。
そこは蓮田市に在る東埼玉病院の病室。
ナースステーションのすぐ傍の二人部屋。
しかし部屋の患者は母一人。

母の事は以前にも書きましたが、特定疾患と呼ばれる不治の病「進行性核上性麻痺」でした。
もう寝たきりになっていて、会話も出来ず、嚥下障害のため、胃瘻手術を施すための入院でした。
体重は38㎏、もう限界と思われ、最初はしないつもりでいた手術を父が説得して受けることにしました。

朝昼晩、四六時中の介護の中、父は良く頑張ってくれました。
入浴の介助こそ手伝いましたが、歯磨き、トイレなど、根気の要る介助は父が中心に行っていました。

胃瘻用のミールを通販で購入し、吸引機器も揃え自宅介護の準備も整え、退院の日を待っていました。
しかし、手術後、母の身体は微熱が続き下がりませんでした。
後から思えば、その微熱が続いていたのは入院する前からだったのかもとも思われました。
しかし、その微熱が続いていたのが母の体力そのものだったようです。

入院は2月24日、26日に胃瘻の手術が行われました。
胃瘻の手術をした後、その介助方法のレクチャーを受けた父が母に付き添いました。
私は都内の会社勤めを4時半で早退させていただき、毎日見舞いに行きました。
東埼玉病院へは蓮田駅からバスが出ていました。
面会時間は午後8時まででしたので、約1時間と一寸の見舞でした。

3月の11日が母の誕生日でしたので、その日ぐらいには退院できるかと思っていたのです。
しかし、その日を過ぎても母の熱は下がりませんでした。
そしてその約一週間後の19日、父が担当医の先生から説明文をいただきました。

現在の発熱症状は、唾液が気管に流れることによる肺炎と思われます。
気管切開(挿管)することで肺の方に唾液が流れない様にし、点滴で抗菌剤を送って熱を下げる様な治療を同時に行う事で改善することもある。
しかし、挿管の効果は不明で、逆効果の事も有ります。

ただし、抗菌剤の効果がなくなると肺炎が酷くなり死に至ることになる。
気管切開(挿管)しますとそれは最後までそのままになるとのこと。
つまり退院はない。


この説明文で判断できたのは母の寿命がもう日にち単位になったという事でした。
母がこの病と判明してから死についてはずっと覚悟をしてきたつもりでした。
しかし、実際に先生の説明文でそれを知らされると、愕然としました。
手を握るとかすかに握り返してくれたり、笑みを見せてくれている母。
その余命がもう僅かだという現実を受け止めきれない自分が居たのです。

私は父と相談し、母の実家の岩手の親戚に知らせることにしました。
気管切開はせずに、人工呼吸器はマスクに寄る方法にしました。

春分の日に母の弟や千葉に住んでいる妹が見舞に訪れてくれました。
おそらくその見舞が母の生前の最期のものになるのです。

その親戚たちを病院の玄関まで見送った父が病室に戻ると母は泡を吹いていたそうです。
それは酸素ボンベに寄る予期された副作用でした。
酸素ボンベを使うと自発呼吸をサボるようになるのだそうです。
初めから酸素濃度をあげてしまうとその副作用も早く出るとのことです。
呼吸をサボるとカラダに二酸化炭素が充満してしまい内臓機能が損なわれてしまうのだそうです。

泡を吹いたという連絡を受けた私は本当に慌てました。
いつもは自転車で向かっていた通院を急遽タクシーを使って行いました。
私が駆けつけたとき、すでに母の病状は落ちついていました。

本当の覚悟はこの時にしたのかも知れません。

それから新たな段階に至るのに約一週間目の3月26日。
担当医の説明文が提示されました。

本日より意識レベルが下がっている。
AM9時ごろ、SpO2値(血液中の酸素飽和度)が60%まで下がっていた。
首の向きを呼吸しやすい様に調整し90%まで回復したけれど呼吸運動が弱くなっている。

呼吸状態がこのまま悪化していくと体が酸性化します。
全身の臓器障害をきたし、呼吸停止、心停止、腎不全(無尿)を起こし、死亡する可能性が高い。
突然の急変も有りうる。

ここ2・3日が山であると伝えられました。
そんな思いで迎えた27日の夜でした。
母の手を握り体温を感じながら一夜を明かしました。
時折、母の手には力が入り私の手を握り返してきていたように思います。

弟と父と交代で仮眠をとり母の事を見守りました。
明け方近く何となくホッとする時間が有りました。
弟が一旦着替えを持ってくるかと私たちに話した数分後、母の容態が急変しました。
それは痰の吸引でマスクの向きを変えた直後に起こりました。

病室に非常を知らせるブザーが鳴り響く中、私は看護婦さんを呼びに病室を出ました。
丁度、夜勤のナースさんと朝のナースさんの入れ替わり時間だったと思います。
隣のナースステーションは空。
先生とナースさんが駆けつけたとき、母はすでに心停止状態でした。

母の名前を呼び続け泣いていた父をそこに残し、弟と私が先生と面談しました。
検体の話がされましたが、お断りしました。
2008年3月28日午前6時55分、母が亡くなりました。
そのあと、看護婦さんがカラダを拭き、綺麗に化粧をして、霊安室に運んでくれました。
母の棺を葬儀屋さんが乗せ弟が助手席に乗り、私は父の運転する車に乗り、二台で自宅に戻りました。
病院の桜並木が満開だったのを今でも覚えています。
明日は母の七回忌です。

by sumomojam39 | 2014-03-27 23:20