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母のこと

前に打診のあった「あいさつ文」の依頼を正式に受けました。
私は彼のことを「先生」と呼んでいます。彼は昔、かつ料理屋さんを営んでおりましたが、今は、カラオケの先生だけをされています。先生には、母が生前にお世話になり、私も相談に乗っていただいたり、また、ことあるごとに日帰りの旅行に連れて行っていただいた恩のある方です。

先生は、ボランティア精神の大変強い方で、あまり自分の損得を考えることがない、優しい方です。私の母のことをここではあまり書いたことがありませんでしたが、今回、初めて少し書いてみようと思います。

私の母は、一昨年の春に亡くなりました。最期は、呼吸ができなくなり、そして亡くなりました。病名は、進行性核上性麻痺という特定難病です。母の病気は治療する方法がなく、また、発症原因も解っていないものです。

発病時期は、正確には解らないのですが、自覚症状は、今から4年くらい前に始まったのかもしれません。最初は、喜怒哀楽が激しくなったように思います。具体的には笑いが止まらないという状態が、周りでは確認できました。
また、視野が狭くなるとか、さらに、平衡感覚が衰えるとかの症状が現れます。しかし、最初は、本人もあまりよく解らない程度だったのでしょう。
でも着実に病状は進行してました。

喜怒哀楽は、笑うのはそんなに気にもとめませんが、悲しくなったり、怒ったりすることは、とても尋常でないと解るものになった頃、MRIの検査を受けました。でも問題がないと言われ、セカンドオピニオンで再度検査を受けました。しかし、そこでも結果は変わりません。

そして、ある日、転倒してあばら骨にひびを入れる怪我をしました。年齢は、また還暦を過ぎた程度です。運動神経も良かった母でした。
さすがに、もう通常の家事が難しいと考え、検査入院を考えた頃は、もう呂律が回りにくくなっていました。検査入院は東大附属病院病院で実施しました。
科は神経内科と言われるところです。検査は、筋電図や血管造影するMRI、脊髄検査など、検査自体辛いものもありました。約2週間の検査は、厳しい病のものから順に検査を行っていきました。
検査結果に一喜一憂というよりも、これらの症状の原因は何なのかという気持ちが強かったと思います。その半年前には、原因をわざわざ探すのは嫌とか言っていました。

結局、病名の発表は、検査結果そして目に見える症状から「進行性核上性麻痺」と疑われます、という形でなされました。検査結果で観られたものは、前に撮影したものとの比較で、小脳の委縮が見られるというもので、症状は言語、平衡感覚、気持ちの不安定な様子などを総合的に判断したものです。

この病気は、脳内にある神経の細胞がどんどん死んでいくというもので、その細胞が無くなった機能から、症状が進行するという恐ろしい病気でした。病状の進行は予測不能です。そして今どの程度なのかも予測不能です。でも、確実に症状が進行している様子は、経過と共にはっきりと表れてきます。

母の場合は、検査入院した年の半年後には歩行が困難になり、食べ物はそれよりも先に流動食になって行きました。9か月経過すると、ほぼ寝たきり、会話も困難になったように思います。お風呂には、週に2~3回父と私の二人がかりで入れてあげました。トイレを自力でするのを断念するのが一番つらかったと思います。

でも、介護する側が一番きついと感じたのは、夜の寝返りを介助することでした。今、寝る位置を決めてあげたと思うと、すぐ苦痛を訴え、位置を変えてあげることでした。結局、一時間に何度も立ちあがって、状態を変えてあげるのですが、父は、よくやってくれました。

私は、最初のうちは、母の期待にこたえようと頑張ったこともありましたが、さすがに、寝せてもらえないことには堪えました。下の世話もほとんど父任せにしてしまいました。浣腸をしてあげるのも、辛いものです。
私がしてあげられたのは、入浴介助以外では、介護申請や身体障害者手続き、特定疾患医療受給者証の申請手続き、重度心身障害者医療費受給者証の申請手続き、通院の付き添い、入退院の手続きくらいなものです。

その頃、先生は、母を週に三度、美容室に洗髪に連れて行ったり、リハビリや鍼灸に連れて行ってくださいました。父と先生のお陰で、私や弟がどれだけ助けられたか、とても言葉では書ききれないものでした。

2008年3月28日、午前6時55分過ぎに、母は帰らぬ人になりました。最期は、東埼玉病院で迎えました。それは口から食べものが取れなくなり、体重が38kgまでになり痩せてしまったことから、胃ろうの手術で、延命しようとした結果のことでした。入院が、2月24日、胃ろうの手術が、2月26日だったと思います。しかし、手術は無事に完了したものの、母はもう限界だったようです。微熱が下がりません。退院予定を過ぎでも、母の容態は改善しませんでした。毎日、通いながら看ていた私の眼にも段々と衰弱していく母の様子が解りました。父は病院に泊まりがけで付き添い、家にいた時と同様に母の世話していました。

最終的には内臓の働き、そして肺の働きが衰え、その結果、酸素吸引をしますと、今度はさらに自発呼吸が衰え、身体が酸性になり、結果、吸引の圧を高める必要となりました。痰の吸引の際は命がけです。ギリギリまでマスクを外して吸引してあげるのですが、その都度、母の容態が悪化するのが解りました。
そうなるともう時間の問題です。最期は家族三人がその病室で泊まり、交互に母の手を握って、夜を過ごしました。亡くなる前の晩、私が母の手を握っていますと、母が私の手を握ってきたことが今も忘れられません。

健康は何物にも代えがたいものです。優しさもとても尊いものです。
それが解ったのは、母のお陰です。

by sumomojam39 | 2009-12-17 23:17 | 母の病