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年末の追悼 2

今日の午後「徹子の部屋」で、今年7月以降にお亡くなりになられた方に対する追悼番組の第2弾が放映されました。
今日、放送されたものは、水の江滝子さん、三遊亭円楽さん、熊田千佳慕さん、南田洋子さんのものです。

水の江滝子さんは、16年前の生前葬の様子から放送しました。
前代未聞の生前葬は、司会は永六輔さんが務め、葬儀委員長が森繁久彌さんで、黒柳さん自身もご出席されたとか、一部を番組でも放送しましたが、水の江さんが、故人として話しておられる様子は、とても笑いが絶えないものだったようです。
VTRは、1991年(当時76歳)のものが放送されました。
男装の麗人の人気について話してくださいました。当時は、まだ女性が三歩下がって歩く時代でしたが、女性が恋人を見る目がとても嫌だったと話していました。続いて1997年(当時82歳)の放送時には、生前葬の話をしておられました。生前葬で自身が座る椅子を映画「エマニエル夫人」的なものを望まれた話や生前葬の香典は、結局、故人に中身を確認されることから、参列者がいくら包んでいいのか悩まれるという話をしていました。自分の良いことしか言われない生前葬の気持ちは大変いいものでしたと感想を述べていました。

五代目三遊亭円楽さんの1983年(当時50歳)のVTRでは、御実家がお寺の円楽さんの幼少期の話から、読書で想像力を養われた話、お父様が即答をしないとポカっと叩く人だったことなどで、即興を身につけて、噺家としての素養が身についたという話をされました。また、1986年(当時53歳)のときには、母親について語られました。落語家になりたいと反対された時、母親が父を説得した話。昭和36年、真打ちにあがれず、スランプで自殺を考えた時、御徒町でホームから飛び降りようとした際に、後輩に呼ばれて、飛び込み損なったあと、母に噺をしてくれと言われ、本堂で「野ざらし」という噺を母に聴かせた後に、感想を求めたところ、暫く考えた後「お前は、名人だね」と言ってくれたこと。痛いほどお袋の気持ちが理解できた28歳の円楽さんは、布団を被って一晩中泣きはらしたそうです。お袋の期待に応えようと心機一転励んだ結果、翌37年に真打ちにあがれたと、母のことを懐かしそうに話されておりました。人情噺を得意とされる円楽さんならではの、親思いの素敵なお話でした。

熊田千佳慕さん、この方は正直良く存じ上げませんでした。日本のファーブルと言われた画家で、昆虫図鑑に載るような素晴らしい絵を書かれる人だったようです。1994年(当時82歳)のVTRが紹介されました。80歳を過ぎて忙しくなり、そして眼も良くなったという話をされた後、熊田さんのお書きになられた昆虫の絵の紹介をされました。オニヤンマの羽根のち密なものから、枯れ葉を描くのに緑の頃から描き始め、後から枯れ葉にしていくという話をされました。

南田洋子さんのVTRは、先日追悼で放送されたものとは別に、下積み時代の頃の話をしてくださったものをセレクトしてくださいました。1986年(当時53歳)のお話は、黒柳さんも同世代なことから、お母様が古着からあつらえてくれたものを着たことを話していました。1995年(当時62歳)のVTRでは、ニューフェイスで3000人くらいの応募の中、受かったのがたったの7人、補欠が入って13人で、お給料は7000円だった。しかし、これでは暮らしていけないと、「仕出し」と呼ばれるエキストラを務めたことを話してくれました。当時、その仕出しで何役もやると泊まることができ、夕飯や朝食、そしてお風呂に入れるということで、同一人物とバレてクビにならないように一生懸命に変装をされたとか。これが暮らしを楽にしたそうでずいぶんやりましたと当時の苦労を話されました。また、始めてもらった役が、銭湯に行く舞子さんの役、その役はお風呂のシーンしかなく、一生懸命に映像に写ろうと長時間入って湯あたりした話をされました。また、黒柳さんがそうした下積み時代の自分の映像を見直されたことを尋ねますと、左卜全さんの娘役で、人の歌うのに合わせて「あら、こけこっこー」と、合の手を入れたのは、観て笑われたと話しておられました。

皆さん、黒柳さんにとても素直にそして解り易くお答えされていました。番組の最期に、今年亡くなられたけれども放送されなかった方々のお名前をご紹介するとともに、森繁久彌さんの映像は、まだ紹介しきれていないものがあるので、今後、機会をみてご紹介したいと考えていますと、お話しされていました。ご冥福をお祈りいたします。

by sumomojam39 | 2009-12-16 01:05 | テレビネタ